東京地方裁判所 昭和54年(ワ)7887号 判決 1982年5月13日
原告 山口三代
右訴訟代理人弁護士 元木祐司
同 江川勝
被告 杉山雄蔵
右訴訟代理人弁護士 高田利広
同 小海正勝
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、七五七万四四四三円及びこれに対する昭和五一年一〇月一六日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 第1項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、昭和五〇年一〇月一〇日午後七時被告の経営する杉山医院において被告の執刀のもとに帝王切開手術(以下「本件手術」という)を受けた。
2 本件手術前同日午後三時には原告は破水していたのであるが、このように破水後の帝王切開手術においては、手術中、手術後に子宮内膜が細菌感染し易い状態にあり特に手術後は膣へ帯下がたまり易い状態にあると感染し易いのであるから、被告は、右細菌感染を防止するべく適切な処置をとる注意義務があるところ、右処置を怠った過失がある。
3 原告は同月一三日、三八度を超える発熱とこれに伴う頻脈の症状を呈したのであるから、被告は、この時点で細菌感染による子宮内膜炎を第一次的に疑い、それに対処する治療方法をとるべき注意義務があるところ、被告は、本件手術後の一、二日の経過が良好だったということのみから、原告の症状は単なる膀胱炎、薬疹、感冒と考え、子宮内膜炎に対する十分な処置をなさなかった過失がある。
4 原告は被告の右過失により、本件手術個所から細菌感染し、敗血症を起こし、さらに急性肺炎を併発し、同月一七日、さらに腹膜炎を併発した。
5 なお被告は同月一五日昼すぎ中野総合病院へ転院したが、同月二一日同病院医師より腹膜炎治療のため外科手術を受けたものの、経過は思わしくなく、腹部瘻孔が子宮に達したため、昭和五一年五月六日子宮の切除手術を受けた。
右病院の手術が介在するけれども、右手術後の疾患も被告の過失の結果といわざるを得ない。
6 原告が被告の不法行為により蒙った損害は次のとおり金七五七万四四四三円である。
(一) 杉山医院治療費 金一六万四四八〇円
(二) 中野総合病院治療費 合計金七〇万四八一三円
被告は右病院に昭和五〇年一〇月一五日入院し、昭和五一年一月三一日退院、その後同年五月五日まで通院していたが、同月六日から二六日まで入院、その後一〇月一五日まで通院した。
昭和五〇年一〇月 金三二万七一〇七円
同年一一月 金一〇万五一三七円
同年一二月 金八万一三六三円
昭和五一年一月 金五万七八五六円
同年二月 金一万一二四一円
同年三月 金三三四八円
同年四月 金六五八四円
同年五月 金一〇万六三二〇円
同年六月 金三七六九円
同年七月 金一〇八〇円
同年八月 金七九八円
同年一〇月 金二一〇円
(三) 中野総合病院入院中の付添人支払(昭和五〇年一一月九日から同月二四日まで) 金五万九〇九〇円
(四) 中野総合病院入院中新生児を入院させた入院費用(昭和五〇年一〇月二四日から同年一二月七日まで) 金一五万九〇六〇円
(五) 中野総合病院入院中及び通院治療中子供を実姉に養育してもらった養育費(昭和五〇年一一月二五日から昭和五一年四月二五日まで) 金一五万円
(六) 中野総合病院入院時から治療完了までの間の慰謝料及び労働能力逸失利益(入院期間中一日四〇〇〇円、通院期間中一日二〇〇〇円)
(1) 入院期間(昭和五〇年一〇月一五日から昭和五一年一月三一日までの一〇九日間)
慰謝料 金八〇万円
逸失利益 金四三万六〇〇〇円
(2) 通院期間(昭和五一年二月一日から同年五月五日までの九四日間)
慰謝料 金二二万五〇〇〇円
逸失利益 金一八万八〇〇〇円
(3) 子宮切除手術の入院期間(昭和五一年五月六日から同月二六日までの二一日間)
慰謝料 金一〇万円
逸失利益 金八万四〇〇〇円
(4) 右手術後通院期間(昭和五一年五月二七日から同年一〇月一五日までの一四二日間)
慰謝料 金三〇万円
逸失利益 金二八万四〇〇〇円
(5) 子宮切除を余儀なくされたことによる慰謝料 金三九二万円
7 よって、原告は被告に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、金七五七万四四四三円及びこれに対する不法行為後である昭和五一年一〇月一六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1項は認める。
2 同2項のうち本件手術前の一〇日午後三時破水したことを認め、その余は争う。手術者が手術個所から細菌が体内に侵入、感染しないよう万全の注意義務をつくしても、現代の医療水準においては術後に感染症の発生を完全に防止することはできない。被告は、次のように十分な消毒、滅菌、別表のように十分な抗生物質の使用を行っており被告には何ら過失はない。即ち、
本件手術に使用した術衣、帽子、マスク、四角布、綿手袋、ブラシ、ガーゼ、絹糸、臍帯結紮糸、新生児用気管カテーテル等は昭和五〇年一〇月八日深夜シンメルブッシュ式蒸気消毒槽を用い消毒、乾燥各一時間の消毒をし、更にこのカストは本件手術に際して初めて開いたものである。手術用器械類は煮沸約一時間半、特に術前の膣洗用クスコ、膿盆は両者共煮沸消毒を行った。カットグートは二重にビニール袋に密封された既製品を手術直前に引出し、稀沃丁消毒用アルコールを潜らせて使用した。術用ゴム手袋はインジケーター有効着色の製品を加刀直前に開封して用いた。手術者の手指消毒は、煮沸した金属洗面器を用いて沸騰後の微温湯を用いた一パーセントヒビテン液を二杯用いて右記消毒済ブラシを使用して行った。術前術後の手術野は、稀沃丁と消毒アルコールを、又臍帯断端は稀沃丁を使用した。手術者の手指先はゴム手袋着用前に更に稀沃丁を塗布している。患者の術前膣洗は一〇〇倍ハイアミン液を使用した。
3 同3項は争う。被告は丘疹の出現、発熱により直ちに子宮内膜炎等の病名診定を行わなくても、化膿症を予見して薬治の増強を行っており十分な処置をしているので何ら過失はない。
4 同4項の事実は否認する。感染時期は本件手術前であるかもしれないし、術後に発症したから、感染時期は術中であったとはいえない。また、鼻腔、咽喉、腸内細菌その他の体内細菌が血行で運ばれ、手術侵襲で抵抗力の弱まった箇所において感染することもありうる。
5 同5項は知らない。
6 同6項は否認もしくは知らない。
7 本件手術後の被告の診断、処置の内容は次のとおりである。
(一) 昭和五〇年一〇月一一日
原告は悪露の異常等なく一般経過良好であった。
(二) 同月一二日
原告は午後自然排ガスがあり、夕食より軽食をとった。
(三) 同月一三日
原告は三八度を超える発熱とこれに伴う頻脈、前胸部四肢屈側等に丘疹を主とした発疹があり、被告は膀胱炎、薬疹、感冒等を考え、注射、投薬の補強を行った。排便、浣腸は行ったが、原告は大小便共自力で行った。
(四) 同月一四日
原告の発疹の変化は顕著でなく、体温は多少下降の傾向を示したが、脈搏は多くなり夜半呼吸促迫の徴候を呈し始めたので、被告はエンドトキシンによる症状かと懸念をもった。
(五) 同月一五日
朝来、原告の体温は前日と同様であったが頻脈と呼吸促迫は度を加えたので、被告は心電図を取ったがそれによってもショックへ移行する虞れが感じられ、酸素吸入、ソルコーテフ一〇〇ミリグラム筋注、ペルサンチン加糖液点滴注射をした。そして、更に完全な病状解明のための検査、酸素テント等による完全な看護の目的で、原告を東京医大病院産婦人科に入院さすべく依頼したが同病院が満床のため中野総合病院産婦人科に入院させることとし、午後二時頃被告は原告に酸素吸入を行いつつ、途中悪化徴候もなく原告を同病院に転院させた。
第三証拠《省略》
理由
一 原告が昭和五〇年一〇月一〇日午後七時、被告の経営する杉山医院において被告の執刀のもと帝王切開手術を受けたこと、右手術前である同日午後三時には既に破水があったことは当事者間に争いがない。
二 《証拠省略》によれば本件手術後経過は比較的良好であったが、一〇月一三日に至り原告の体温は三八度を越え、丘疹が生じ、右の状態は同月一四日も続き、同月一五日には更に頻脈、呼吸促迫、心悸亢進の状態となったこと、被告は右同日菌血症の疑いがあるとみて原告を中野総合病院に転医させたこと、同病院において同月二一日開腹手術の結果、腹腔全域に及ぶ汎発性腹膜炎、敗血症、麻痺性腸閉塞と診断されたこと、またその際の手術所見によると、前回の手術創瘢痕を一部開くと膿汁(黄色・濃厚)を認め、腹腔には特に子宮前壁と腹壁との間に膿瘍を認め、全体に子宮周囲に炎症が強く膿苔の附着を認めたこと、またトライツ靱帯より約一メートルの部位その他数ヶ所に腸間膜の膿瘍が認められ、いわゆる腹腔全域に及ぶ汎発性腹膜炎の状態であり、腸全体に膿苔の附着、発赤が強かったこと、そして腹腔内数ヶ所に存在する膿瘍から考え前回の手術の際に流れ込んだ血液に感染したものと考えられること、他方血液培養の結果によれば敗血症の原因菌はブドー状球菌との疑いが濃厚であったことが認められる。
三 ところで《証拠省略》によれば、次のことが認められる。
1 本件手術の消毒、滅菌について、被告は、昭和五〇年一〇月八日夜被告医院の消毒室でシンメルブッシュ式蒸気消毒器により術衣、マスク、四角布、綿手袋、ブラシ、ガーゼ、糸、臍帯結紮糸、新生児用気管カテーテルを滅菌し、手術用の器具を煮沸消毒器で一時間半位消毒し、カットグー卜、ゴム手袋は消毒済の既製品を本件手術の際開封して用い、しかもカットグートはヨードチンキと消毒用アルコールを通してから使い、ゴム手袋はヨードチンキのついた脱脂綿を握ってから使用し、手術者の手洗いは煮沸した湯の中に消毒薬としてヒビテンを用い滅菌してあるブラシを使用して三〇分位行い、手術野はキオチンを塗りアルコールで拭き取ったこと、
2 本件手術は臍下正中縦切開し、腹膜を子宮頸部上端部で剥離、円靱帯基部に向って切開し、内子宮口縁の高さで子宮筋層に横切開を加えたのであるが、児を挽出したのちアトニン〇五単位を子宮体部に注入すると同時に点滴中にメテルギン(A)を混注したこと、胎盤を剥離したのち、子宮腔内を体部及び頸管側に於てガーゼで清掃したこと、そして、その後子宮切開創を閉じたのち、ダクラス窩、腹腔及び膀胱子宮窩を清掃し、ストマイを注入したこと、
3 更に被告は本件手術後クスコーを用いて原告の腟内の血液をきれいに拭き出して消毒し、血液あるいは分泌物が軟産道、腟内にたまることがないよう処置したこと、
4 感染防止のための抗生物質として、被告は原告に対して昭和五〇年一〇月一〇日午後三時三〇分(破水確認後)クロラムフエニコールゾル一〇〇〇ミリグラム、午後九時四〇分クロラムフエニコールゾル一〇〇〇ミリグラム、午後一一時三五分(手術後)カネンドマイシン四〇〇ミリグラムを投与し、手術中にも前記のとおりストマイ一・〇グラムを注入したが、右抗生物質の使用方法は破水後の帝王切開手術の場合通常行なわれるものであること、
5 一般に破水前の帝王切開手術(無菌手術)の場合でさえ術後感染を四パーセント以下にすることは現代の医療水準において不可能とされていること、
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定事実によれば、被告は、一応、本件手術に際し局部、手術器具等の消毒滅菌には適当な道具材料を用いて注意を払っており、抗生物質の使用についてもまた、子宮切開創を閉じたのちの腹腔内の清掃、薬品散布についても通常医師としてなすべき措置を怠っていないのであるから、他に、右消毒滅菌が不完全であったか、あるいは本件手術には特に通常以上の細菌感染防止措置を必要とする事情を認めるに足りる証拠がない以上、被告に本件手術中、手術後に細菌感染を防止する適切な処置を怠った過失があるということはできず、この点に関する原告の主張は採用できない。
四 次に、原告は、被告に昭和五〇年一〇月一三日の時点で子宮内膜炎を疑い、それに対する十分な治療を怠った過失がある旨主張するので検討する。
本件手術後の原告の症状は前記二において認定のとおりであるが、より詳細にこれをみると次のとおりである。即ち、《証拠省略》を総合すれば次のことが認められる。
1 本件手術後である昭和五〇年一〇月一一日、一二日は原告の全身状態に異常は認められなかったこと、
2 原告は、同月一三日、朝食前に体温が三八度七分あり、胸の付近に薬疹様の発疹と丘疹ができ、尿中に蛋白が少しでており、脈搏は通常と変わらない症状を呈していたこと、そして抗生物質の投与もあって、一旦、原告の体温は三八度一分まで下がったこと、
3 同月一四日、原告は依然丘疹がひかず、朝再び三八度七分に発熱し、その後体温は三七度、三八度二分と下降の傾向をみせたものの脈搏が上昇し同日夜非常に息苦しさを訴えるに至ったこと、
4 同月一五日朝に至っても頻脈、心悸亢進、呼吸促迫の症状を呈していたこと、
5 ところで、被告は同月一三日の段階では薬の副作用か感冒、ないしは膀胱カタル、腎孟炎が介在する可能性があると疑い、経過をみることとし、カネンドマイシンに加え内服薬としてペントレックスを投入したこと、
6 同月一四日夜遅く被告は原告の脈搏数、熱の下がり方等から菌血症の疑いをもったが、被告医院では血液の培養等の設備がなく検査ができないので翌朝の原告の状態をみて機を失しないでなんらかの処置をとることとしたこと、
7 同月一五日、被告は心電図をとった後さらに詳しい検査をする必要があり、被告医院では十分な治療ができないと判断して種々の総合病院と連絡を取った結果、午後二時頃酸素吸入を受けさせながら原告を中野総合病院へ転院させたこと、
以上の事実が認められる。
そして、中野総合病院における診断及び手術所見は前記二認定のとおりである。
以上の事実から判断するに、まず原告は本件疾患を子宮内膜炎であると主張するが、前記認定のとおり、汎発性腹膜炎、敗血症等であり、これを覆すに足りる証拠はない。従って被告が原告に対し右一三日の時点で子宮内膜炎に対応する処置を講じなかったことをもって過失ということはできない。
ただ、原告の一三日の症状に対し、被告は前記のとおり薬の副作用、感冒、膀胱カタル、腎孟炎の疑いをもったのみで、腹膜炎、敗血症との診断及びこれに対する治療を行ったと認めるに足りる証拠はない。しかしながら、本件手術後及び一一、一二日と原告の全身状態に異常が認められず、一三日に至って始めて発熱、丘疹等の症状を呈したのであるから、同日の段階では右症状の原因について種々の可能性を考え、経過をみるということは止むを得ないことといわざるを得ず、また被告は右一三日の原告の症状に対して被告の判断により抗生物質の増強を行っているのであり、右一連の処置をもって医学の水準に達しない不合理なものであると認めるに足りる証拠はない。
また、右同日以降の被告の治療についても前記認定事実によれば通常開業医としてなすべき臨機応変の措置を怠っていたとは認められず、この点に関する原告の主張は理由がない。
四 従って、その余の点について判断するまでもなく本訴請求は理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 根本久 裁判官 都築民枝 裁判官青山邦夫は転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 根本久)
<以下省略>